10年前の3.11
2021-03-11
10年前の3.11

あの日は、大阪の上司と一緒に営業先の1件目を終えて、金沢市内に戻ってくる時だった。

当時、通信事業の会社の北陸支店で法人営業をしていて、月に1回大阪の上司がやってきて同行営業する日。

その日の午後からの1件目の製造業のお客様の訪問を終えて、高速道路で金沢市内に戻ってくる途中の運転中に、助手席の上司が私に「揺れてない?」って言うので、私の運転が荒いって言ってるのかと、ちょっと不機嫌に「そんな雑な運転してないですよ」って言い返した。

その後、金沢市内のお客様先は大手書店の本社。
1階が書店で、2階の事務所に伺うと、いつもの応接室ではなくテレビの前で担当の専務が「こんなことになってる」って確か言ったと思う。
どうして、応接室ではなくテレビの前だったのかも記憶はないけど、テレビの中の津波で流されていく様子を見てびっくりして、急いで支店がある駅前のヴィサージュに戻ったことを覚えている。

それからは、東北の被災したエリアに支店があって使われていたはずの電話回線の状況確認や、携帯電話の電波の復旧状態など目まぐるしく忙しい日々が続いた。

担当していた会社が、仮設住宅を立てることになり、どのエリアなら携帯電話の電波が届くのか毎日、その会社の担当者と打合せをしていたことも思い出される。
電話が通じないエリアでの工事は出来ないからだ。

そして、担当していた他の会社から連絡が入る。
「携帯電話が水没してしまったので、機種変更したい」
訪問してお話を聞くと、あの地震の時に水没した携帯を持っていた社員は、営業で気仙沼にいたとのこと。
車に乗っていたら、遠くから叫び声が聞こえたかと思うと一気に波が来て流されてしまい、車の窓から脱出し、車の上に上がって救助を待った。
手を差し伸べたけど、掴むことも出来なかった人も居たという。
自衛隊に助けられて、近くの公民館に避難することが出来て、近所の方が会社に電話を入れてくれたらしい。それで、会社からガソリンを持って社員を探しに行って連れて帰った話を、応接室で水没した携帯電話を前にして聞いた。

その後、その会社は葬儀に使うものを作っている会社だったので、無料で随分たくさんの棺桶を被災地に届けたと聞いた。
社員を助けてくれて、出来ることはこんなことしかなかったって、社長から伺った。

当時のお客様を通して、都内の様子や、被災地の様子を知った。

そして、その歳の夏に会社員を卒業し、今の仕事を始めた頃にあるご縁で「東日本復興支援財団」のお仕事を、財団のメンバーと復興庁の方と一緒にすることになり、福島、宮城を訪問した。
被災された方たちと、現状を未来に向ける解決の手段を考えるためのワークショップのために。
山形の社会福祉協議会の方と一緒に、福島から避難してきた方々の困っていること、これからの未来について、財団の仕事としてファシリテーターをしたことで、生の声を聞いた。

夫を残して福島から山形に身を寄せてると「あそこの嫁は逃げた」って言われてる。
福島から来たってだけで「体操服が違う」ことで子どもが学校に馴染めない。

私と東北の関わりについて話すと、「東日本復興支援財団」との縁があったことも「銀座コーチングスクール仙台校」をやりたかった理由のひとつ。

あの時、やりきれなかった何かをやりたい。

長く書いちゃいました。

多くの亡くなった方のご冥福をお祈りいたします。





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坂本 祐央子(さかもと ゆみこ)

オンライン、対面の研修を通して、人材育成コンサルタントをしています。
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